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?アフリカンシクリッド飼育とドーベルマン&ウィペットとの日常です。

ドーベルマンの歴史と沿革

ドーベルマンの歴史を知るには、あまりにも諸説粉々として、確固たる定説はない。

なぜなら、ドーベルマンの誕生の初期における資料がなく、人から人への口伝えのものがほとんどたからです。その中でも比較的根拠があり、理解できる説を中心に歴史を振り返ってみます。

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ドーベルマン氏の存在


時代は、百数十年前にさかのぼる。

旧東ドイツ南端チューリンゲン地方の首都アポルダ市(当時ザクセン・ワイマール公爵領の首都で、人口は2万人ほど)を中心として、ドーベルマンは誕生した。

このころチューリンゲン地方において、犬は牧羊犬、狩猟犬、護身犬、番犬、また食用犬などに用いられていた。純血犬は皆無の状態で、それぞれ飼育者の飼育目的に応じて雑種交配されていた。チューリンゲン地方が犬の繁殖が盛んであったのは、定期的に犬を売買する犬市場が開かれていたのが大きな要因といわれている。この市場は、1863年以降、チューリンゲン犬種改良協会が組織的に開催していた。

そんな時期、アポルダ市に住む真の愛犬家の目を持ったひとりの青年がいた。彼は、頻繁に犬市場に顔を見せ、盛んに犬の繁殖をしていた。名をヒリードリッヒ・ルイス・ドーベルマンという。

彼が創成期において非常に深くドーベルマンの作出に関わっていたことは、犬種名がドーベルマンと命名されていることからも理解できよう。しかし、ドーベルマンの犬種名が確定したのは、彼の死後のことである。

ドーベルマン氏の職業の情報は、複数紹介されている。市の税務署の職員(具体的には、滞納者からの集金係)、市の犬の捕獲人、犬の皮剥職人、夜警人である。いずれにしても、集金人、夜警人の立場で護身上ガード・ドッグを必要とし、鋭敏で恐怖を知らず警察の仕事にも耐える、それでいて家庭犬として飼育でき、肉体的・精神的に力強い犬の作出を目的に努力しただろうことは、容易に考えられる。

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試行錯誤とO・ゲラー氏


ドーベルマン氏は『シュヌッペ』と呼ばれていた黒色の被毛にタンと灰色の下毛をもつ雌犬を所有しており、牧羊犬・狩猟犬などに使われていた、ありとあらゆる雑種の雄犬と交配した。彼は1880年前後にふたりの犬友達の応援を受けたが、そのひとりは墓掘り、もうひとりは教会のベル係で、3人共同の事業として犬の作出を協力し合った。

しかし、実際にはしっかりとした気質の犬を作ることはなかなか難しく、最初は見事に失敗して精悍そのものの恐ろしい犬が生まれたといわれている。彼は明確に定義した繁殖プログラムを持っていなかったので、目的を達成するまでに多くの時間がかかった。そのころからアポルダ市内外の人は、黒色にタンがくっきりした犬を指して「ドーベルマン氏の犬」または「ドーベルマン氏のピンシャー」と呼んでいた。

しかしドーベルマン氏は(その職業や犬友達から想像して)、当時の社会からは下層の地位にあり、教養、学識がなく、ドーベルマン種の確立・固定・改良には限界があった。

その時期に、酒造所のオーナーであるオットー・ゲラー(1853〜1922年)がドーベルマン氏と彼の犬に会い、大変魅力を感じ、当初はすべての面で偉大なスポンサーとしての役割を果たした。ドーベルマン氏の功績をたたえ「ドーベルマン・ピンシェル」と名づけたのも彼である。

また1899年、彼の尽力により「ドーベルマン・ピンシャー・クラブ・アポルダ」が創設された。これは後に「ナショナル・ドーベルマン・クラブ・オブ・ジャーマニー」となり、1890年、公式にドイツ・ケンネル・クラブに認められたのである。

彼はその一方で、ブリーダーとして「チューリンゲン・ケンネル」犬舎主として、ドーベルマンを科学的に研究・発達させ、使役犬、展覧会犬として大成させた。チューリンゲン・ケンネルの血液は、後にヨーロッパをはじめ、世界中で見られるまでに功績を上げている。こうしたことから、ドーベルマン氏より、むしろオットー・ゲラー氏を功労者として高く評価する人が多い。

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苦難を乗り越えて


1941年、各地にあったドーベルマン・クラブが、ドイツ・ドーベルマン・ピンシャー・クラブの名の下に集結され、統一組織的な血統の改良・固定が進み、犬種の発展が約束されたかに思えた。しかし、第一次世界大戦の勃発により多くの悲劇がもたらされ、ドイツのブリーダーの大多数は中立国オランダに自分の犬を持ち込んだ。これが、オランダにおけるドーベルマンの第一次絶頂期になった。

1918年には戦争も終わり、ドイツ南部のバイエルン地方を中心に、近代ドーベルマンへの改良が始まったのである。

とはいえ、今のポジションを獲得するまでには、第二次世界大戦をはじめとする幾多の苦難があった。それを乗り越え、完成された見事な芸術品として、また優秀な頭脳を持った犬種として、人間とともに共存している現在の本犬種があるのは、多くの人々による犬種の改良・固定・発展に対する、想像を絶する努力があったことを忘れてはならない。特に、「ドイツ・ドーベルマン・クラブ(DV)」「インターナショナル・ドーベルマン・クラブ(IDC)」の存在は大きなものであった。

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わが国のドーベルマンたち


さて、わが国にドーベルマンが最初に輸入されたのはいつであろう。

諸説あるのだが、1900年代の初期の大正時代、ヨーロッパから船員により持ち込まれたといわれている。だが、正式な記録としては残ってはおらず、確証はない。「帝国軍用犬協会」(現・日本警察犬協会の前身)が登録業務を開始した1933年に登場する『ストラール・オブ・スミスコート』が正式な記録の第1号である。以降1933年度DVジーガーの『デジール・V・グリュックスウインケル』をはじめとして『ユンケル・V・ビューテルブルグ』『ボドー・V・チングスグート』『ケザール・V・ラウフェルゼン』『アコー・V・シェフェルスブルグ』『アルノー・V・アドレスゲステル』など、20数頭の雄・雌が次々と輸入され、ドーベルマンの改良に寄与した。順次頭数も多くなり、ドーベルマン種としての地位を確立、発展に至ったのである。

しかし1941年、第二次世界大戦の開戦により、しだいに国民生活も悪化し、ともにドーベルマン界も冬の時代への突入を余儀なくされていった。前記20数頭の輸入血液を巧みに交錯融合させて産出された戦前のドーベルマンも、戦時中は十数頭ともいわれたほどの惨状であった。しかし、熱心なドーベルマン愛好家の努力に支えられて、血液を絶やすことなく昭和20年(1945年)の終戦を迎え、ドーベルマン界の回復期、本格的発展期に入るのである。

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